【公式】『神埼市観光協会』佐賀県東部、鳥栖市と佐賀市の中間に位置する神埼市の観光案内です。国の名勝・九年庵ほか歴史と文化を訪ねる観光スポットをお楽しみ下さい。 foreign language

神埼市観光協会

長崎街道神埼宿

長崎街道神埼宿マップ

江戸時代、長崎街道は小倉から長崎間57里(228km)を25ヶ所の宿場で結んでいました。鎖国体制の中で、幕府の唯一の貿易港であった長崎には、海外から人物・知識・文化が入り、長崎街道は重要な”文明ロード”といわれていました。神埼には、藩の迎賓館「お茶屋」跡や、脇本陣の武家宿、外国使節団の宿舎などがあり、宿場の東西の出入りには、厳重な木戸を構え、午前6時頃に開門、午後10時頃に閉門していたと伝えられています。
現在も当時と同じ行程の道路が利用されており、東の木戸の近くには、長崎街道で唯一現存する一里塚(ひのはしら一里塚)があるなど、さまざまな文化が往来した長崎街道神埼宿の当時の面影をしのぶことができます。


1.ひのはしら一里塚

ひのはしら一里塚
長崎街道沿いに1里、約4キロごとに造られたもので、現在、小倉から長崎までの228キロの中では、唯一残っている貴重なものです。小高く盛り土された一里塚は旅人に距離を知らしめ、休憩場所を与えた所で、「ひのはしら」とは、櫛田宮(クシダグウ)の緋色の赤い鳥居が建っていたことから名づけられたものと思われます。上の方には、その昔から、いぼ地蔵と呼ばれるお地蔵さまが祀られていて、地元の人たちが大切に管理をしています。

2.長崎街道 東木戸口

長崎街道 東木戸口
佐賀本藩(サガホンパン)の殿様が宿泊する本陣のある神埼宿には堅固な構え口がありました。木組み格子の扉が跳ね上がる防御の強いもので、木戸の開閉は明けは六つ時(午前6時)、閉門は暮れの四つ時(午後10時)でした。藩主や旗本クラスの幕府の要人が宿泊する本宿(ホンシュク)という格式の高い神埼宿(カンザキシュク)ならではの厳重な木戸口だったということです。

3.櫛田宮


櫛田宮の由来を記した『櫛田宮由緒(くしだぐうゆいしょ)』という書物には、景行天皇(ケイコウテンノウ)が1920余年前に櫛田宮をつくってから、神の幸を受ける平和な里になったといわれています。「神の幸」が「かむさち」となり、これが後の「神埼」の由来になったとされています。
櫛田宮は、皇室領の荘園「神埼荘」の総鎮守として、中央と密接な関係を持った神社で、肥前鳥居(ヒゼントリイ)や中世の多くの古文書が残り、太神楽・締元行列(ダイカグラ・シメモトギョウレツ)が奉納されるみゆき大祭が2年ごとに行なわれます。
櫛田宮参道に建つ1602年に建立された石造の鳥居は、2本の柱の基礎が太いなど、肥前地方独特のかたちをしています。
櫛田宮の樹齢およそ700年の琴の楠(コトノクス)は、心の清浄な人が息をとめて楠のまわりを7回半廻れば琴の音が聞こえると伝えられている大木です。

4.馬場川


宿場の中心を流れる馬場川は、有明海から筑後川をへて物資を積んだ船が往来し、左側を西水馬場(ニシミズババ)、右側を東水馬場(ヒガシミズババ)といいいます。
櫛田宮の近くを流れるこの川は、中世から近世と神埼の経済を支える重要な川でした。有明海から神埼の特産品が積み出されていたこともあり、馬場川付近には飛脚や馬、辻かご、荷担ぎ屋といった運輸関係の店が集まっていました。

5.問屋場跡


櫛田宮南の長崎街道が西に折れる地区には、飛脚や馬、辻かごや荷担ぎ屋など、運送に関する問屋場が置かれていました。当時、豆腐1丁が5文の時代に「人と荷物で62文から120文」「人のみは41文から77文」、荷物かつぎの人足代は32文から59文と定められていましたが、幕府関係はタダで、藩が支払う仕組みになっていました。

6.旧古賀銀行神埼支店跡


旧古賀銀行神埼支店は、大正3年(1914年)に竣工しました。建物は、洋風外観の総2階建ての木造モルタル作りで、内部はフロアを中心として、その大半が吹き抜けに作られていました。しかし、大正14年(1925年)に休業となり、昭和8年(1933年)には金融恐慌で銀行が解散、その後、産科医院、歯科医院として使用されていましたが、廃院後の平成21年(2009)に市が買収しました。平成13年(2001)には、国の登録文化財に指定、また、22世紀に残す佐賀県遺産にも認定されています。

7.本陣(お茶屋)跡


神埼宿は、佐嘉藩や長崎奉行、近隣の大名など幕府の重臣が宿泊、休息をする重要な本宿(ほんしゅく)だったところで、本陣が置かれており、御茶屋番として鍋島藩の武士が常駐、管理運営をしていました。脇本陣のひとつであった「長崎屋」の百田文書(モモタブンショ)という文書には、藩主の他に幕府の巡察使や巡見使、長崎奉行らが泊まったと記録されています。

8.原岡家住宅


東肥前の経済の中心地だった神埼宿には、商家や寺院などの大きい建物が建ち並んでいたものと思われますが、明治7年(1874年)の佐賀の役でほとんどが焼失してしまいました。その後建てられた商家で1番古いのが「原岡家」です。明治17年(1884)に建てられた原岡家は、ハゼの実でつくる製蝋業を生業(なりわい)とし、城原川東岸の西小津ヶ里(ニシオヅガリ)から新村(シンムラ)にかけての堤防に植えてあった約1000本のハゼの木は原岡家の所有でした。また、原岡家は「かっぽリ屋」と呼ばれていましたが、これは、唐津に運んだハゼ蝋を下ろしたあと、かっぽりと呼ばれていた履物を仕入れて店先で販売したことによります。

9.真光寺・浄光寺(脇本陣)


真光寺と道をはさんだ浄光寺は江戸時代、共に本陣に準ずる位置づけの脇本陣が置かれた寺です。オランダ商館付き医師として長崎に着任したシーボルトも宿泊、休憩したことが「江戸参府紀行」に記されています。この時シーボルトは、神埼宿のことを「およそ1千戸の心地よき町」と記しています。かつては大名行列の共侍やオランダ商館員たちの休息や宿泊地として使用された脇本陣です。

10.大圓寺(ヒトツバタゴの花)


約50年前、大圓寺住職が故郷の長崎県対馬から種を持ち帰って植えたのが始まりのヒトツバタゴの木は、現在40本程になりました。
4月下旬から、まっ白い花が咲き、若葉が雪をかぶったようになります。その昔、この対馬でこの花を見た人が「あれは、なんじゃもんじゃ?」と言ったことから「ナンジャモンジャ」の木として、知られるようになりました。街道沿いにある禅寺は、春たくさんの人が訪れるところになりました。

11.神埼宿場茶屋(そうめんコロッケ)


長崎街道西木戸口にある「神埼宿場茶屋」は、町屋を利用してつくられた、食事処と休憩の場所です。ここの名物は「神埼コロッケ」です。細かく砕いた神埼そうめんを衣にした、パリっとした食感が人気のコロッケで、中の具材もミンチ、ジャガイモ、玉ねぎ、にんじん、豆などに湯がいた麺が小さく刻まれて入っています。パリッとしてサクサクとして、そしてフワッとした大人気の美味しいそうめんコロッケです。

12.長崎街道 西木戸口方面


長崎街道、神埼宿の西の入り口にあたる「西木戸口」です。  長崎へ向かう時は、ここから左に折れ梚木町(ヒキギチョウ)に入り、城原川を西岸に渡りました。江戸時代は木戸番人が、朝6時に木戸を開け、夜10時に閉じていました。殿様が宿泊や休憩をする「本陣」や「脇本陣」があった重要な宿ならではの構えで、吉田松陰は「西遊日記(さいゆうにっき)」に「並々ならぬ構えぶりであった」と記しています。  神埼宿の木戸口は門扉式ではなく、戸板を上に引っぱりあげて下をくぐって出入りしました。東口ともども同じように堅固な木戸口で、並々ならぬ構えぶりでした。

 

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