神埼市観光協会・KANZAKI

史跡・名勝

 

■ アンドレ・ジャッピー記念碑

ジャッピー記念碑 アンドレ・ジャピーは、フランスの冒険飛行家で、フランス政府によるパリ―東京間100時間飛行の懸賞競技に挑み、昭和11年(1936年)11月15日パリを飛び立ち、11月19日早朝、不安定な気象条件の中をジャピー機は東京へ向かって香港を出発。しかし、飛行は困難を極め、気流に巻き込まれ脊振山頂付近に墜落しました。
遭難を知った地元の人々は、捜索隊を編成し、雑木林の中で動けなくなっていたジャピー氏を発見し、ジャピー氏は一命を取りとめました。当時この出来事は国境を越えた人間愛として大きな話題になり、小さな村に咲いたフランスと日本をつなぐ感動的な出来事として、今でも語り伝えられています。墜落した山中には石碑が建立されています。
〔所在地〕脊振町

 

■ 栄西記念像(茶祖)

栄西記念像 脊振山頂に向かう途中、木立の中に日本に最初にお茶を植えた、臨済宗の開祖栄西禅師の記念像が、訪れる人を静寂のなかでむかえてくれます。
日本茶は、鎌倉時代に栄西禅師が宋の国からお茶の種を持ち帰って、脊振山に植えたのが始まりといわれおり、その後、茶の製法や効能を全国に広めました。この一帯は、8世紀の頃から、山岳仏教の聖地として栄え、修験道場としての様々な大伽藍が建ち並び、脊振千坊(セフリセンボウ)と称えられたところです。
〔所在地〕脊振町

 

■ 脊振神社
脊振神社(上宮)
 脊振神社(上宮)
脊振神社(下宮)
 脊振神社(下宮)
 脊振山は、一説では、七福神の紅一点である弁財天を乗せて天竺から飛んできた龍が、脊振山の上まで来て天に向かって三度いななき、背中のギザギザした背びれを打ち振ったから「脊振山」と名付けられたと伝えられています。佐賀県と福岡県の県境に位置する標高1055m、脊振山地最高峰の山で、山頂には、航空自衛隊のレーダー基地があります。
脊振山頂の上宮の神殿(ジョウグウノシンデン)は、石のほこらになっており、弁財天とイチキシマヒメノミコトが御神体としてまつられています。御穀豊穣の神として肥前、筑前の農民に信仰され、現在も参拝者が絶えません。冬には寒さも厳しく、積雪も多いため、参拝が困難でした。そのため脊振山の中腹の白蛇神社(シロヘビジンジャ)の境内に下宮(ゲグウ)を建立しました。標高700mで本殿のまわりには杉林が広がり、なかには樹齢500年の杉の大木もあります。この神社の社殿は明治7年(1874年)の佐賀の乱により焼失、現在の社殿はそのあと再建されたものです。
〔所在地〕脊振町
 

 

■ 後鳥羽神社

後鳥羽神社

鳥羽院地区には、鎌倉時代の1221年「承久の乱」で敗れ、隠岐島に流された後鳥羽上皇がひそかに島を抜け出し、身を寄せたという「後鳥羽上皇の伝説」があり、鳥羽院の名前の由来にもなっています。現在でも、2月22日の後鳥羽上皇の命日には祀りごとが行われています。

〔所在地〕脊振町

■ 脊振のめがね橋・桜街道

脊振 めがね橋  明治24年(1891年)に作られた高さ14m、長さ20m、幅6mの石造りの橋で、橋脚は城原川両岸の岩盤に固定され、耐久性と急流の負荷を少なくするために、アーチ構造でできています。城原川の深い渓谷にかかり、神埼と脊振の幹線道路として利用されていました。めがね橋の欄干から噴き出る水「恵みの流水」は、みどり豊かで自然の豊富な「せふり」から、ここを訪れる人たちへの贈り物です。現在眼鏡橋は神埼市の重要文化財に指定されています。
このめがね橋周辺は、城原川沿い約2㎞にわたり、春は桜の街道が続き、6月になるとあじさいも咲き始め、脊振渓谷に彩りを添えます。
〔所在地〕脊振町


■ 広滝第一発電所

広滝第1発電所  脊振町の深い緑のなかに色鮮やかな赤いレンガの建物、これが明治生まれで、いまだ現役の、九州電力広滝第一発電所です。現存するレンガ造りの発電所としては九州で一番古いものです。明治40年の着工当時、馬車や牛車、人力だけが頼りだったため工事は困難を極めました。
城原川から取水した水を導いて、その勢いで水車を回して発電する仕組みで、明治41年(1908年)に完成した県内最初の水力発電所です。イギリス製煉瓦157万個により造られ、ドイツ製の2基の発電機を備えていました。出力1000kw。待望の送電が開始された2060戸の電燈が一斉に輝いたとき、人々は飛びあがって喜んだそうです。当時では最新式の施設で、現在でもタービン3基で2150kwの発電が行われています。
春にはイギリス製の赤レンガの建物が、周りを取り巻くピンク色の桜とよく映えて山間の田園風景をさらに興味深いものにしています。春の桜のピンク、菜の花の黄色、彼岸花の赤、そして秋の銀杏の黄色など、山合いの四季を楽しむことができます。
〔所在地〕脊振町


■ 九年庵

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秋の九年庵
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春の九年庵
 明治時代の佐賀の実業家、伊丹弥太郎の別邸と庭園は、「九年庵」として、平成7年(1995)、国の名勝に指定されました。別邸は、明治25年(1892)につくられ、庭園は、九州で茶室や築庭において並ぶものなしといわれた名人、久留米のほとり和尚に委託し、明治33年(1900年)から九年の歳月をかけて築いたものです。
別邸は、入母屋葦葺きの屋根に杉皮の腰張りの土壁、竹格子の連小窓や真竹を用いた濡縁など、材質、色感、意匠、構造などのすべてに、細心かつ充分な吟味が加え、茶室と書院の様式を折衷した近代和風の数寄屋建築です。
庭園は、多くのツツジやモミジ、苔など様々な樹木で彩られ四季を通して美しい景色を描き出しています。深い木立は周辺の景観とよく調和し、はるか筑紫野の広がりと有明海が眺望できる借景庭園となっています。
毎年秋の紅葉が美しい11月15日から23日までと、新緑に癒される春に一般公開されています。

 〔所在地〕神埼町仁比山  地図を見る ▲このページの上方へ
秋の九年庵1 秋の九年庵2

 

■ 伊東玄朴旧宅

伊東玄朴旧宅 伊東玄朴は、幕末、長崎の鳴滝塾でシーボルトにオランダ医学を学び、日本で最初に天然痘を予防するための種痘を導入、また現在の東京大学医学部となった西洋医学所の創設など、近代医学に多大な貢献をした人です。またオランダ医学としては初めて将軍の侍医となり、名実ともにオランダ医学の頂点に立った人物でもあります。伊東玄朴旧宅は、玄朴が漢方医であった20歳の時(1821年)に建てた家で、昭和48年(1973)に佐賀県史跡に指定されました。
旧宅内には玄朴自身が翻訳したオランダの書物「医療正始」(イリョウセイシ)や江戸時代末期の医学書、師を務めた蘭学塾「象先堂(ショウセンドウ)」のパネル写真などを展示、200年前に建てられた屋内で、ゆっくりと往時を偲ぶことができます。
【問い合わせ先】神埼市教育委員会 社会教育課 文化財係 TEL0952-44-2731
〔所在地〕神埼町仁比山

 

■ 仁比山神社

仁比山神社  仁比山神社は山の神、農業の神を祭神とし、地元の人に「山王(さんのう)さん」と呼ばれ親しまれています。12年毎に申の年の4月初旬、大御田祭がおこなわれ、県重要無形民俗文化財である「御田舞」が奉納されています。この神社の参道の入り口には江戸時代に作られた仁王門があり、市の重要文化財に指定された金剛力士像二体が安置されています。
また、この神社にある樹齢800年や600年の楠の大木は、堂々たる迫力で見る人に不思議なパワーを与えています。神社内にはモミジの古木がたくさんあり、春の新緑・秋の紅葉の時期は、すぐそばにある九年庵とともにたくさんのお客さまで賑わっています。 隣接する「九年庵」の庭園と併せて、春の新緑、秋の紅葉の景色がとても見事です。
〔所在地〕神埼町仁比山

 

■ 水車の里
水車の里01
水車の里02
 明治時代、仁比山地区には城原川水源の川を利用した60を越える水車群がありました。
その時代には水車大工や管理する水車親方がいて、荷車(ニグルマ)に小麦を積み平野部から農家の青年などが集まり、賑わいをみせていたといいます。
平成7年(1995年)に、昔を偲ばせる仁比山水車を復元、水車の里として整備されました。
水車の里遊学館は、3連水車の形をモデルとしたもので、館内には、仁比山神社の御田舞(オンダマイ)を、水車で発電した電気によって動かすからくり人形や、水車の資料などの展示が行われています。

【利用可能時間】 9:00~16:00
            (休館日:毎週火曜日)
【問い合わせ先】
  水車の里 遊学館
  TEL0952-53-8884
  神埼市役所 建設課 建設課都市計画係
  TEL0952-37-0103

 

〔所在地〕神埼町小渕 地図を見る ▲このページの上方へ

■ 白角折(おしとり)神社

白角折神社楠  白角折神社には、昭和40年(1965年)、佐賀県の天然記念物に指定された樹齢1000年を越える堂々たる楠の大木があります。この大楠は樹高約26m、根回り約27m、1000年を超えた今でも、まだ成長の途中という、県下でも代表的な見事な楠の巨木です。
平安時代から三所大明神の一つとして崇められてきた白角折神社は、櫛田宮のクシナダヒメ、高志神社のスサノオノミコトのふたりの神様とともに、日本武尊が神埼を守る御祭神として祀られています。
〔所在地〕神埼町朝日


■ 吉野ヶ里遺跡

 吉野ヶ里   吉野ヶ里遺跡は、脊振山南麓から佐賀平野に向かって細長く伸びた段丘上にあります。 この遺跡は、昭和61年からの工業団地開発に伴う埋蔵文化財発掘調査の成果などから、弥生時代の約600年という長い期間を通して小さなムラが大陸の文化を取り入れ、やがてクニの中心集落へと発展する過程を教えてくれる極めて学術的価値の高い遺跡であることがわかりました。 なかでも弥生時代後期の環濠集落跡はわが国でも最大規模のものであり、中国の史書「魏志倭人伝」に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせるものとして全国的に注目を集め、平成3年5月には国の特別史跡に指定されています。
〔所在地〕神埼市(神埼町)・吉野ヶ里町の市町境
◎国営吉野ヶ里歴史公園ホームページhttp://www.yoshinogari.jp/index.html


■ 王仁(わに)(鰐)神社

王仁神社  吉野ヶ里歴史公園の北1㎞の所にある「王仁神社」には、「王仁(ワニ)天満宮」という石の祠が祭られています。この祠は今から千数百年前、応神天皇に招かれて百済から多くの技術者をつれて渡来し、日本に初めて漢字の手本である「千字文(せんじもん)」と儒教の原典である「論語」を伝えた、王仁(ワニ)博士を祀ったものではないかといわれています。王仁博士の一行は朝鮮半島の南西端の港から日本に渡ったと言われていますが、この祠の存在から昔、王仁(ワニ)博士一行が吉野ヶ里の渡来人と同じ、有明海を利用して日本へ来たというルートを改めて想像させます。
また、この神社は「鰐大明神」(ワニダイミョウジン)と「熊野三社」(クマノサンシャ)が祀られていることから、江戸時代には、九州から熊野大社に参詣に行くため、海を渡る人々の安全を祈願して作られたものではないかともいわれています。
〔所在地〕神埼町竹原 地図を見る ▲このページの上方へ

 

■ 櫛田宮
櫛田宮(本殿)
櫛田宮
櫛田神社(肥前鳥居)
県重要文化財 櫛田宮石造肥前鳥居
櫛田宮の由来を記した『櫛田宮由緒(くしだぐうゆいしょ)』という書物には、景行天皇(ケイコウテンノウ)が1920余年前に櫛田宮をつくってから、神の幸を受ける平和な里になったといわれています。「神の幸」が「かむさち」となり、これが後の「神埼」の由来になったとされています。
櫛田宮は、皇室領の荘園「神埼荘」の総鎮守として、中央と密接な関係を持った神社で、肥前鳥居(ヒゼントリイ)や中世の多くの古文書が残り、太神楽・締元行列(ダイカグラ・シメモトギョウレツ)が奉納されるみゆき大祭が2年ごとに行なわれます。
櫛田宮参道に建つ1602年に建立された石造の鳥居は、2本の柱の基礎が太いなど、肥前地方独特のかたちをしています。
櫛田宮の樹齢およそ700年の琴の楠(コトノクス)は、心の清浄な人が息をとめて楠のまわりを7回半廻れば琴の音が聞こえると伝えられている大木です。【問い合わせ先】櫛田宮 TEL0952-52-3016

〔所在地〕神埼町、旧長崎街道沿い 地図を見る ▲このページの上方へ

 

■ 旧古賀銀行神埼支店

旧古賀銀行 旧古賀銀行神埼支店は、大正3年(1914年)に竣工しました。建物は、洋風外観の総2階建ての木造モルタル作りで、内部はフロアを中心として、その大半が吹き抜けに作られていました。しかし、大正14年(1925年)に休業となり、昭和8年(1933年)には金融恐慌で銀行が解散、その後、産科医院、歯科医院として使用されていましたが、廃院後の平成21年(2009年)に市が買収しました。平成13年(2001年)には、国の登録文化財に指定、また、22世紀に残す佐賀県遺産にも認定されています。
〔所在地〕神埼町、旧長崎街道沿い

 

■ ひのはしら一里塚

ひのはしら一里塚 長崎街道沿いに1里、約4キロごとに造られたもので、現在、小倉から長崎までの228キロの中では、唯一残っている貴重なものです。小高く盛り土された一里塚は旅人に距離を知らしめ、休憩場所を与えた所で、「ひのはしら」とは、櫛田宮(クシダグウ)の緋色の赤い鳥居が建っていたことから名づけられたものと思われます。上の方には、その昔から、いぼ地蔵と呼ばれるお地蔵さまが祀られていて、地元の人たちが大切に管理をしています。
〔所在地〕神埼町、旧長崎街道沿い


■ 長崎街道木戸口

西木戸 長崎街道、神埼宿の西の入り口にあたる「西木戸口」です。  長崎へ向かう時は、ここから左に折れ梚木町(ヒキギチョウ)に入り、城原川を西岸に渡りました。江戸時代は木戸番人が、朝6時に木戸を開け、夜10時に閉じていました。殿様が宿泊や休憩をする「本陣」や「脇本陣」があった重要な宿ならではの構えで、吉田松陰は「西遊日記(さいゆうにっき)」に「並々ならぬ構えぶりであった」と記しています。  神埼宿の木戸口は門扉式ではなく、戸板を上に引っぱりあげて下をくぐって出入りしました。東口ともども同じように堅固な木戸口で、並々ならぬ構えぶりでした。
〔所在地〕神埼町、旧長崎街道沿い

■ 国史跡 姉川城跡

姉川城跡 圃場整備後  姉川城跡は、平成22年(2010年)に国史跡に指定されました。中世の農村集落と領主や武士の発生と成立を見ることができる貴重な遺跡です。環濠を周囲に巡らせ、佐賀平野に残るクリーク地帯に築かれた城跡の中でも最大級の規模を誇り、中世領主の館などの情景を具体的にとどめているとして高い評価を受けています。
南北朝の時代の1360年、南朝方の菊池武安が築城し、その後代々の姉川一族が城主となり、竜造寺隆信の勢福寺城攻めのときは、本陣となった重要な城でした。のちの佐嘉城は、この姉川城を参考にして築城されたものといわれています。
〔所在地〕神埼町姉川


■ 直鳥城跡

直鳥城跡  千代田町のほぼ中央部、城原川の右岸に位置する直鳥地区には1504~1521年の戦国時代に築城されたといわれる直鳥城跡があります。 直鳥城は中世の環濠集落の構造を持つ城跡で、周りを堀で囲み、さらにその中を、縦横に網の目状に堀が巡っています。この形態は、佐賀平野独自のもので、発掘調査により数々の貴重な資料が見つかっています。堀のまわりを歩くと、当時の面影が浮かんでくるように最近整備されました。
〔所在地〕千代田町直鳥

 

■ 下村湖人生家

下村湖人生家  「次郎物語」の作者として知られる下村湖人の生家です。蓮池鍋島藩の勘定方をしていた湖人の祖父が、明治初期に藩邸にあった建物を譲り受け、現在地に移設、増築したと伝えられており、湖人はこの家で10年ほど幼少期を過ごしました。
昭和45年下村湖人生家保存のため、下村湖人生家保存会によって買収、修復されました。また、平成9年から10年にかけて、傷みのひどくなった瓦や屋根を「瓦一枚募金」によって修復されました。 この生家は明治時代初期の建造物として、また次郎物語第1部の舞台として非常に貴重なものです。毎年10月3日に行なわれる湖人生誕祭や、小中学生の交流の場として活かし残していくとともに下村湖人の業績をたたえ、また精神文化の拠点となる重要な文化財として大切に守られています。
自伝的小説である「次郎物語」には、現在の間取りや庭の様子も描写され、湖人の幼少期の暮らしぶりがうかがえます。
〔所在地〕千代田町﨑村
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